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WIEN BASEBALL CLUBとは?

WIEN BASEBALL CLUBとは、1977年、オーストリアで働く日本人達が、野球をやりたくなって、ドナウ川の河川敷に自分たちでグラウンドを作って始めたチームです。

※「HISTORY」のページもご参照下さい。

その後、当時のメンバーの転勤に伴い、日本でチームを結成し直しました。
また、1988年には、日本野球連盟にも加盟しました。
その際「プロ野球選手の輩出」「企業チームに勝利」「クラブ選手権全国大会優勝」の3つの目標を掲げました。

この3つの目標については、まず、プロ野球には、今関投手(元日本ハム)、丹波投手(元ヤクルト)を送り出すことができました。
また企業チームには、春の県大会で三菱自動車川崎(現三菱ふそう川崎)に勝利することができました。
さらに、クラブ選手権全国大会では、1995年に惜しくも優勝は逃したものの、準優勝という成績を収めることができました。

このように、この3つの目標はおおむね達成できたと考えています。

さて、近年、クラブチームがおかれている環境は様変わりしました。
企業チームが減少する一方、スポンサーのついたクラブチームが増えてきています。結果、クラブチームのレベルは年々上がってきています。
また、プロを目指す人の受け皿として、独立リーグができ、プロへのステップとしてそちらを目指す人も増えました。
こうした環境変化の中、WIEN BASEBALL CLUBは、クラブ選手権の全国大会はおろか、南関東大会にも出場できないことが続いています。
また、オーストリアのウィーンでの創部の精神を受け継いだチームであり続けるためにはどうすればよいのか考えました。
その結果、WIEN BASEBALL CLUBは、心機一転するために、2007年度からは新しい体制となりました。
また、チームとしての目標と行動基準を以下の通り定義しました。

<チームの目標>
長期:①クラブ選手権全国大会出場
    ②生涯現役・・・硬式野球ができる喜びを持ち続ける

今年度:クラブ選手権西関東大会出場

<目標を達成するための行動基準>
①時価主義
 ・今の等身大の自分を謙虚に見つめよう。
 ・年功序列でもなく、若手への切り替え優先でもない、時価で考えよう。

②WIENへの献身的な貢献
 ・チームが何をしてくれるかではなく、チームのために何ができるかを考えよう。
 ・「3つの貢献」…「出席すること、欠席時に連絡すること」「グラウンド整備をすること」「部費をきちんと払うこと」を全員がやろう。
 ・オーストリア・ドナウ川の河川敷にグラウンドを作ってまで野球をした創部の精神を忘れないように!
③率先垂範
  ・チームリーダーたる者は試合のプレーはもちろん練習、グラウンド整備、雑用、チーム運営への協力などで、率先して自分の手を動かそう。
④明るく楽しい野球
 ・高いレベルの野球を目指すことは厳しい野球をすることもある。
  だからこそ、明るく楽しく野球をやろう。
  そして、皆が毎週参加したいと思うチームを作っていこう!

つまり、野球への情熱(”Passion for Baseball!")を原動力に①~④にしたがって行動し、「最高の仲間と最高の野球」を実現していくのがWIENの野球なのです。


そして、そのWIENの全ての始まりである、オーストリアでの創部経緯については、以下の「ウィーン事始」をご覧下さい。
我々はこの創部の精神を大切に受け継いでいきます。


ABOUT

チーム創成期を語る:「ウィーン事始」 東山敏代表

 

ドナウ河の河川敷で、創設者軍司貞則氏(フリージャーナリスト、現ウィーン94代表)とその友人がキャッチボールをやったのは、1977年の秋のことである。

その後まもなく、日本人会の野球大会開催を契機に、軍司氏の許に野球を愛する男たちが集まるようになり、河川敷の草地で、硬球で野球をやり始めた。

企業の駐在員、レストランのコック、洋菓子職人、大学の留学生、交響楽団員、画家など、いろいろな職業の男たちが集まった。毎週末、チェコのプラハから出掛けてくる男もいた。過去に硬球を握った経験のない男たちが、大半だった。その中に、私も加わった。

ヨーロッパ。オーストリアの首都、音楽の都ウィーン。全く野球などに縁がなく、スポーツといえばサッカー、あるいはスキーという土地柄。ひたすら汗を流した後の美味いビール、ワインが飲みたくて、男たちは硬球を追った。

それがWIEN BASEBALL CLUBの始まりである。

ところが、今まで野球に縁のなかった土地、野球用のグラウンドなど有る訳がない。河川敷には、所々に芝生のような低い草が生えていて使えそうなところがあるが、そこは人気スポーツのサッカーをやる大人・子供たちに占領されている。困ってしまった。

結局、自分たちでグラウンドを作ろうということになった。

役所と交渉し、ドナウ河の河川敷で背の高い葦も混じった草木が生えていて、誰も使っていないところを、自分たちで整備するという条件で、使用許可をもらった。最初は身の丈ほどの草木を草刈り鎌で刈って、根を取ったり、再度剪定鋏で切ったり、最後は芝刈り機で刈って仕上げをした。「草刈り鎌で草を刈る時の腰の使い方は、バッティングと同じだ。いい練習になる」と言われて、鎌を奪い合った。ピッチャーマウンドは、バケツで何杯もの土を運び、全員が足で踏み固めたところに、工事現場でもらった廃材を埋め込んで作った。ラインは、その都度引くのは大変なので、ライン上に浅く掘った溝へ壁に塗る漆喰を埋め込んで作り、容易に消えないように工夫した。野球をやりたくて集まった男たち、そして彼らの妻・子供・ガールフレンドが、殆んど毎日、午前の部、午後の部と交代で、仕事・学業の合間に汗を流した。そして数週間後、両翼95メートル余り、全面芝(?)の手造りグラウンドが完成した。

野球をやりたい、楽しみたい一心で、全員が協力して汗水を流した。これが、当CLUBの原点のそのまた原点である。

用具は、軍司氏の尽力により某メーカーから寄贈いただけることになり、日本から輸入した。が、その輸入税関でトラブった。当時は、日本赤軍が欧州各地で騒動を起こしていた頃、今まで見たことのない金属製の細長い棒や革製のとんでもなく硬い球などは、何らかの武器と疑われたらしい。当社(当時、私はYKKオーストリア社の社長)出入りの輸出入業者を引き連れて説明に出向き、野球というスポーツの用具であることを説明、苦労の末なんとか入手した。消費の激しいボールは、一度使用済みのボールを、複数の在日協賛者(田所現総監督もその中の一人)から送ってもらったり、あるいは私が日本へ出張した際に、いただいて持ち帰ったりした。ユニフォームは、当時アマチュア野球選手権をやっていたイタリアに依頼して作ってもらった。イタリア・ナショナルチームのユニフォームと全く同じデザインのもので、縁取りから何まで全て刺繍の手作りだった。

チームはできたが、試合相手を見つけるのは容易でなかった。週末の練習を続けているうちに、アメリカ大使館・海兵隊、国際応用科学研究所などといったアメリカ系チームから連絡が入った。野球・ソフトボールを楽しみたいが、グラウンドに苦労している、我々の作ったグラウンドを使用させてほしいということだった。これを契機に、彼らと定期的に試合をすることになり、二年間で13試合やったが、一度も負けなかった。

我がチームに、月に一度(日本食品の買出しを兼ねて)チェコのプラハから出てくるベテラン投手がいた。ストレートは並みだったが、いいカーブを持っていた。ある試合で、彼が先発完投したが、27アウトのうち三振が21個あったのには驚いた。海兵隊の中には、徴兵制があるためMLBの3A・2A級のいい選手が、何人もいる。捕手などはしゃがんだまま投げて、すごい球が二塁まで行ってしまう。それでも、小細工と総合力で勝った。毎試合後、彼らがアメリカ大使館へ招待してくれたり、我々がグラウンド横の野原で準備をしたりで、バーベキューパーティをやって懇親を深めた。男たちが野球を楽しみ、その後のパーティを女性・子供たちが楽しんだ。

彼らから学んだことは多い。その一つが、常に全力投球ということ。凡ゴロでも全部一塁まで全力疾走することに始まり、グラウンドにいる時間は他のことを忘れて野球に全力を注ぐという姿勢だ。これは、当CLUBでも見習うべきことだと思う。

フランスへの遠征もやった。パリにある日本人野球チームと、仏独国境の街ストラスブールで合流し、週末に大学のグラウンドを借りて試合をすることになった。ストラスブールと言えば、ウィーンから7~800kmはある。列車で約10時間近くかけて出掛けた。数人は仕事を終えた後、車で深夜に高速道路を飛ばして行き、仮眠して一試合。夜はパーティ。翌日は二試合。二日で三試合やって、夕方再び車を飛ばして帰った。とんでもない強攻スケジュールだが、野球をやりたい気持ちが強く、当時はなんとも思わなかった。

12月31日、日本流に言えば大晦日にも集まった。ウィーンは内陸のため、気温はとても低いが、雪は殆ど降らない。寒風に頬や耳を赤くしながら、凍ったグラウンドで、落ちている木々や葉を燃やして暖を取りながら、練習をやった。寒い中で汗を流した後は、当然ながら、忘年パーティで新年の夜明けを迎えた。この楽しみがあるから、練習中は誰一人として、寒いとは言わなかった。

チームの野球技術といえば、今とは雲泥の差、比較すること自体が失礼なのだが、やる者の意気込みだけは今より数段上、絶対に負けていなかったと確信している。

1979年秋、軍司氏を始めとして主力メンバーの数人が次々と帰国、試合ができるような状態ではなくなった。それでも残ったメンバーたちは、毎週末硬球を追い、汗を流していた。その頃には、現地の若者たちが野球に興味を示すようになり、数人が練習に加わるようになっていた。当時は全く野球に縁がなかったオーストリアにも、現在は複数の野球チームがあり、欧州野球連盟のリーグ戦に参加していると聞いている。これら若者たちの練習参加が、その種になったのではないかと、密かに喜んでいる。

軍司氏の帰国から数ヶ月後、日本におけるチーム再結成の報が届いた。1980年5月、私も13年に亘る欧州勤務を終えて帰国し、日本における新チームに参加することになる。

1993年冬、故あって軍司氏は当CLUBから独立することとなったが、ウィーンでの誕生に始まり、日本における再結成など、当CLUBの歴史を語るには、彼の存在を無視することは到底できないことであり、また当CLUBという素晴らしい場を若者たちに与えてくれたことを感謝しなければならない。

ところで、ドナウ河川敷の手造り野球グラウンドは、その後どうなったか。

私がウィーンを去った直後、ボート用の練習コースを造る工事が始まり、数ヵ月後にはコースの下になった。野球を愛した男たちとその家族が汗水流して造ったグラウンドは、ドナウ河の水の底中に沈んでしまった。

それから数年後、出張でウィーンを訪れた際、そのボート練習コース、即ち我がホームグラウンドがあった場所を、街外れの展望台から見下ろした。涙が出て、止まらなかった。

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